時がやってくる
昨夜は雨音を聞きながら瞑想していた。
今の状況ではなかなか旅が難しいので、瞑想の中で高千穂の槵觸(くしふる)神社の四皇子峰に座っていることをイメージした。何度かご縁をいただいて参拝させていただいているこの神社は最初に訪問した時の感覚がとてもはっきり記憶に残っているため、イメージをしやすい。
この 神社の四皇子峰 を初めて訪れ、その場所に入った時にぼわんと圧のようなものを感じた。一瞬、拒否されているのかと思ったが、そうではなかった。なにか結界のようなものがあるのではないかと思える。
四皇子峰 は神武天皇とその皇兄弟五瀬命、稲飯命、三毛入野命の4柱の降誕地で、神功皇后が三韓征伐に際して、7日7夜の戦捷を祈願した場所であるとも伝えられる場所。それほど広くはないが、峰への入り口のようなところからはなにかこれ以上近づいてはいけないような雰囲気が漂う。
昨夜はこの真ん中に座って瞑想するようなイメージを持った。昨年訪問したときは真ん中に突っ立ってしばらく祈りを捧げていたが、その時のことも思い出しながら時間と空間をゆがめるような感覚で、周囲の木々にも手伝ってもらいながら瞑想というか祈り続けた。
雨音は慈雨を思い出させる。
慈雨は、人々の上に、生きとし生けるものの上に癒やしと恵みとして降りそそぐ。
今、あちこちから聞こえてくる人々の思いやり、やさしさの表現が何かの波を大きくしていく。
ああ、確かに我々は一つに向かおうとしていると思える。どれほど時間がかかろうと、もうそれは始まっている。
たとえそうではない行為が多々見られても、始まった流れはもはや止められない。
なぜならそれは元々我々の内にあるものだから。
近頃、ふつふつと内から喜びがわいてくるのだ。
小躍りしたくなるぐらい、「ああ、いよいよ・・・」という気になるのだ。
まだ何も始まっていない。
だが、確実に何かの気配がある。
まったく、どうにかしている。
たわごとにもほどがある。
だが、どうにも抑えられない。
時がやってくる。
我らが待ち望んだ時がやってくる。
だから昨夜の瞑想も、最後はやっぱり感謝の祈りで終わった。
まさしく時を違えず生まれてきたのだ。
この世界に私を存在せしめている全てに感謝です。
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