「今」に力を集める
昨夜、なにかと心が中途半端になっているような気がして、久しぶりにチャネリングで今の自分に必要なアドバイスを求めた。
ちょっと思うところまではつながっていないようだったが、伝わってきたのは何事も全力でおこなうということ。祈るならば全身全霊で祈る、勉強するならば全身全霊で学ぶ、遊ぶならば全力で遊ぶ・・・ということ。・・・かなり耳が痛い。
全身全霊というのはずいぶん重い言葉だ。だがそうしないとエネルギーをかなり無駄にしているようだ。その行為に関する密度が薄くなるのだ。
たしかに今の自分を振り返ると、祈りにしても形式的なものになりがちで、これではきっと同じ時間をかけたところでパワーが不足しているので届けたいところには届かないだろう。
結局、これは「今」を生きるということ、そのものである。
「今」にいかにエネルギーを集中させるか。
「今」の密度をいかに濃くするか。
これができていないから今の自分自身を中途半端だと感じてしまうのだな。
もう一つ伝えられたこと。
それは「生きる喜び」
この地上に存在する生物たちは「生きる」ことを謳歌している。
それがキラキラと輝く無数の光として見えていて、本当に美しい。
たとえ短い時間であろうとも、この世界に存在することになんの疑いも挟まずむさぼるように命をつなぐ。「生きる喜び」とは「存在する喜び」だ。
今を生きている喜び。
生命賛歌の波のような、音のないその高らかな賛歌が聞こえてきて、
自分の中にある同じ喜びと呼応して、爆発しそうになった。
(ああ、たしかに私は生きている。)
そして自分の歌を歌おうとしたとき、より高いところにひっぱりあげられるような感覚があって、よりクリアで広がった空間に移動した。
比較をしたらわかるのだ。
なにか不透明なものに自分が囲まれていたと・・・。
そしてその場で私は自分の感情を爆発させた。
もう一つ現れたイメージ。
それははやぶさの視点。
空高いところから眼下の景色を眺めている。
しかし、ある一点に焦点を合わせたとき、私の目は急にその一点の細部までがはっきりと見えるようになる。なんともダイナミックで興味深い。
これは象徴的だ。私はものごとをマクロにもミクロにも捉えることができると思っている。その視点をあらためて示されたような気がした。
そして大きな回帰への流れ。
遙かな時の流れを経て、また戻ってくる。
しかし、それはたしかに多くの経験を踏まえて過去とは異なっている。
そしてそれはゴールではなく、通過点にすぎない。
とはいえ、感慨は深い。
なんとかここまで来たのだから・・・。
瞑想は面白い。
同じ空間にいるのに、
まったく別次元の世界にいるかのようだ。
内なる力を無駄にしないで、存分に味わおう。
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