PHOTOS
旅が好きなので、記憶にとどめるために写真を撮る。ただ、木々や空が多いのでどこに行ったかが写真からはまったくわからないのが難点。
でも同じ空は二度とない。これこそ一期一会。
木々が放つエネルギーが好きだ。
優しさと叡智に満ちたエネルギー。
見上げることも触ることも好きだ。
神社を参拝するといつも自分の中の軸がしっかりしてくる。
余計なものが拭い去られ、ありのままの自分が頭をたれている。
鳥羽水族館で撮ったもの。ガラス越しなのにきれいな色がでた。
海は生命の源。
こんなきれいな魚たちがいる世界も同じ地球だなんて、なんだかすごい。
阿蘇を訪れた時、地球の呼吸を見ている気がした。
ただただ力強いエネルギー。清も濁も関係ない。
ごちゃごちゃ考えすぎなんだよ。
嵐山でたまたま出会った大きな日輪。
太陽は美しい。
とてもストレートに何かが伝わってきて、ついカメラを向けてしまう。
瀬戸内国際芸術祭から帰ってきた際に撮ったもの。
空が真ん中だけ掃き清められたようになっていて面白いと思った。
樹を下から見るとこんな幾何学的な模様になっていることがよくある。
太陽の光を少しでも受け取るために隙間を埋め尽くして枝が伸びていくから。
それが面白くてよく写真に撮るのだが、どこの樹かは覚えていない。
戸隠の杉並木は本当にすごい。
ぺたぺたと触りながら歩くのでなかなか前に進まない。
道を撮るのも好きだ。
なんとなく示唆的でそれぞれの道にそこを行き交った人たちのさまざまな感情がしみこんでいるような気がするのだ。
太陽が作り出す世界がある。
それが写真の面白いところ。
磐座が好きだ。
いつか世界の巨石古代遺跡を訪れて触ってみたい。
伊勢神社の五十鈴川。
あんなに大勢の人が訪れながらこんなに清浄でいられるのがすごい。
特になんということのない景色なのだが、緑のさまざまな色がきれいで、世界は本当に美しいと思ってしまう。
奈良の大神神社の近くに貴船神社という小さな神社がある。
ここはなにかとてもやさしい自然霊のような気があって参拝するといつも心が洗われるような気分になるところ。
黒部ダムを訪れた時、夏なのに雪が残っていて美しかった。
平和でおだやかな一時。
太陽の光が厚い雲から差し込むのを見るといつも思う。
我々の内にある光もきっとこのように隠そうとしても隠しきれない輝きが外にあふれているのだと。
奥入瀬は渓流沿いに歩くのだが、その川の流れの音は雑多な気をすべて洗い流してくれる。
水の塊が何かが流れに逆らって上って行くようにも見えて面白い。
屋久島ほど有名ではないが、隠岐の島には多くの古い木々がある。そして磐座のような巨石もある。
何があるというわけではないのにとても魅力的な場所で、しばらくゆっくりしたい場所だ。
これも隠岐の島。
神社が好きなのは、そこに立派な木々が神社を護るようにあって、結界がきちんと示されていた時代のままに残っていることが多いからだ。
まるで誰かが落書きしたような空。
空は毎日見ても全然見飽きない。
なぜ巨石に惹かれるのかな。
何も語らずそこにずっと存在し続けている。
いろいろなものを見たり聞いたりしてきたはずなんだ。聞いてみたいよ。
真夏に訪れた熊野古道ではヘロヘロになった。
ただ歩くしかなくて、手を抜くこともできない。年季が違うと感じてしまう手強い道。
古から人々が様々な思いを胸に歩き続けた道。
ただただ一歩一歩足を前に進めることでしかどこにもたどり着かない。
元気なうちにまた熊野古道を歩きたい。
歩いている途中は後悔しっぱなしなんだけれど。
太陽ほどしょっちゅうカメラを向けないが、月も大好きだ。
自分を全部さらけ出しても赦される慈愛が月にはある。
天の橋立に行った際に撮った。言わなければどこの場所かわからない。
海も好き。結局、全部好きなんだ。
龍穴神社にて。
この神社で少し不思議な体験をしたので印象深い場所。
この飛行機雲のようなものを見る確率が結構高い。
そして私はこれを自分への合図のように捉えている。
木々に何かがやどるのか、木々が何かになるのかは知らない。
ただ長い年月を経て、どこかにたどり着いた木々がある。
特別な場所がごく普通に存在していることに驚く。
神社に参拝するのはその静謐な気に触れたいから。
気づかぬうちにいろいろなものを背負ってしまっているのに気づかせてくれる。
言葉のいらない世界がある。
ただ黙って祈りを捧げる。
二面石。左善面と右悪面の二つの顔を持つ石。飛鳥時代のものらしい。
その頃から我々には二面性があることを古の人々は知っていたのだ。
別にどうということのない風景であるのに妙に面白く思えて撮った写真。
やっぱりなぜだか心惹かれる。
山の辺の道で出会ったかかし。
でも翌年行ったらもういなかった。
時々驚くほど美しい景色に出会うことがある。
だから旅はやめられない。
まるで墨絵の世界。
すべてのグラデ-ションが完璧に美しい。世界は本当に美しいものにあふれている。
一日の終わりが近づき、静かな時間が辺りに満ちていく。
冬の樹のフォルムが好きだ。
不要なものを一切捨てて、その潔さが美しい。
水晶の玉を撮ったらなんだか不思議な感じに写った。
遊びで描いた絵。意味はない。
点描画は嫌いではないのだけれど、絵の才能があまりに欠けている。でもやっぱり嫌いじゃない。
道の写真はまるで自分のテーマのように何度も何度もでてくる。シンボルなんだろうな。
ニセコで撮った一枚。濃い霧でちょっと幻想的な風景になった。
時々光の加減で肉眼では見えないけれど写真では面白いものが写っていたりする。
そういう場所はけっこう特別な雰囲気があることが多い。
かつての職場の近くは空が近いので、晴れているとたいてい写真を撮っていた。
久高島の朝の美しさは特別だ。
夜明けからスコールが近づいて、やがて通り過ぎ、虹がかかる。
まるで一連のショウをみているみたいな気分だった。
これも久高島の朝の海。
ウミガメが海からこちらを覗いているのに目が合ったりする。
太陽がとても力があるときがあって、そんな日はどこにいても光が自己主張する。
屋久島は一週間で8日雨が降るといわれるぐらい、雨が多い。苔むした森はどこか別の世界の入り口のようにも思える。
同じく屋久島。たぶん入ってはいけない世界のような気がする。
木々に惹かれるのはなぜなのかな。あちこちの樹に惚れてしまう。
奈良の飛鳥で撮った。この日は太陽がなんだかものすごく特別にキラキラしていて、光だらけだった。
だから石舞台の中もレンズを通すと青い光があふれていた。
太陽が特別だと感じた日に再度石舞台を訪れた。レンズごしに現れる興味深い世界。
この写真を撮るには車の行き来の多い道路の中央ぐらいが最適なのだが、景色に見惚れているとクラクションをならされる。
鳥居つながりで。鳥居がたくさんあると、どこか違う世界に行き着いてしまうような気にさせる。
目に見える世界と目に見えない世界が次元を変えて重なり合っている。時々、2つの世界は結びつく。太陽であったり、影であったり、音であったりの媒介を通して。
階段も道につながるものがある。どんなにつらくとも足を前に一歩出さなければ前に進まない。ゆっくりとでも登り続けることでしかたどり着かない。
自然の中にいるといろいろごちゃごちゃと考え過ぎるのが馬鹿らしくなってくる。あまりにすべてが完成されていて。
すべての葉を削ぎ落とした潔さが好きだ。これ以上どうしようもないほど、全部捨て去って、それでも美しい姿を保っている木々を見るのが本当に好きだ。
この国に生まれて本当によかったなあと思うのはこんな光景を見るとき。誰もがお金を払って取っていく。信頼されたら応えるしかない。
黒部ダムは人と自然の闘いの場所でもあったのだが、ここばかりは人の偉大さにただただ感心する。とにかくスケールが大きい。水の放出の際に虹ができる。この虹も人と自然の合作。
冬の木々が好き。フォルムがただただ美しい。潔くて、しかも生命力にあふれていて、しかも美しい!
クラゲを見ていると時間の経つのを忘れてしまう。生まれ変わるならクラゲになりたいと真剣に思っていたことがあった。水の流れに抵抗せず、しなやかに、しかも明らかに水とは異なる動きをしている。面白い。
空は本当にさまざまな表情を見せてくれる。この空は世界につながっていて、我々を一つにしてくれているんだ。
非日常と日常の間を切り取った一瞬。なんとなく好きな一枚。
回廊も被写体として好きなものの一つ。道に通じるし、フォルムが美しい。