MEDITATION

瞑想中に体験すること、体感することが妄想なのかどうかはわからない。

ただ、私にとっては明らかにその時に必要なメッセージを伝えられることがしばしばである。もはやどの瞑想でどんな体験をしたかは忘れているし、それが重要ともさほど思わない。大切なのは私が何を体験し、何に気づいたかである。その当時のブログにもあげているが、ここにまとめ、再び迷った時の道しるべにしたい。



*ある日の瞑想*

自分が生まれながらに持っている音を探る。音は聞こえない。ただ、自分の何か存在全体で音を出している感覚がある。そして、その音というか、波動があちこちの他の存在たち(同じ人間だけでなく、動物も植物も鉱物も、そして自分のガイドたちやあらゆる存在を含め)が奏でる音の中に溶け込み、一つのハーモニーを作っている。

周囲に負けないように思いきり音を出す。それはハーモニーを壊すのではなく、より生き生きと調和させる。その音はシンフォニーのような、また単独の音のような、オームという調べのような・・・不思議なものだった。

自分の音を聞きながら全体の音に耳を澄ませる。自分の音が全体には不可欠で、誰もの音が不可欠で、それが完全な調和の音を作ってる。

どのように見えようが、世界はあくまでも完全に調和している。一刻一刻、刻々と姿を変えつつ、どの一瞬も完全で、同じでない。

その視点から自分自身と自分が今生きている世界を見た時、きめの荒いエネルギーが作り出す現象がある。だが、たとえどのように見えようが、その底には同じ存在がある。我々はどこにでもいる。どのような世界であろうと、どこにでもいるのだ。

言葉にすればOne is All, All is One ということなのだろうが、この感覚がきれいごとではなく、なんだか自分と周囲を区切る皮膚が溶けていくような奇妙な感覚だった。

頭をかけめぐる言葉もなく、ただただ静謐な場で呼吸を繰り返す。

自分の呼吸を聞く。それだけが自分が生きている証のような気がして、ただただ呼吸を繰り返す。


*ある日の瞑想*

瞑想に入るとすぐにまぶしい光がやってくる。そして眼下に光の向こうにはっきりと石を並べた土地が見えてきた。次の瞬間、そこに降りていて、そこは祭場というか、何かの儀式の場所だとわかった。そして、そこの場のエネルギーが塊のようにどっと押し寄せてきて、しかも光はますますまぶしくて、ドキドキした。怖いと思ったけど、こわがらなくていいという思いがすぐしたので、そのまま受け入れた。過去の風景なのかどうかはわからないが、思い出すためのスイッチが入れられた感がある。

その瞑想が終わってもまだ額に光の感覚が残っていて、体がフラフラした。その後の瞑想では「理性的でいることはできない」というメッセージの後に思考が焼切られたような感覚があって、しばらく言葉が何も浮かばない。炎がシンボルとしてやってくる。もうなんなんだって感じだ。


*ある日の瞑想*

今回は特にテーマではなかったはずだが、『闇』が出てきていた。

出てきたのが西洋の黒い棺で床に横たわっているのではなく、壁にもたれてまっすぐ立っていた。ふたが開いていて花が供えられている。誰かがいるのだが顔の部分が暗くなっていてわからない。その暗さは底が無くて、そこに完全な「闇」があった。誰の棺かもわからないまま、たぶん過去世なのだろうと思いながら観察していた。

どうしても闇の奥が知りたくて、自分の意識を棺の闇の部分の中に沈めていった。すると全身が闇に覆いつくされてしまった。

この人物が生きていた間に抱えていた闇の深さに驚く。棺は結構りっぱなもので、時間が経つうちに徐々に理解したのだが、この人物は聖職者だった。かなり尊敬もされていて、亡くなったというのでみんなから悲しまれている。だが、彼は生きている間、内にものすごく深い闇を抱えていた。

聖職者でありながらの神への不信なのか、あるいは聖職者にあるまじき欲望なのかはわからないが、どうしようもない闇の深さに苦しみながら死んだ人だった。

その闇にとらわれながら、同じ闇が今の自分にもあることがわかる。自分の中に潜む闇。

ただ、彼と自分が異なるのは、今の自分は闇を否定していないこと。闇があっていいというか、闇が自分の一部であると知っている。

闇を望むわけではないが、自分の中にあるものとしてこれを消したいとも思っていない。

この時の瞑想ではここまでだったが、別の瞑想のときにまた同じ闇が現れ、全身をすっぽり覆いつくされた。彼の苦しみが闇越しに伝わってくる。

だから伝えた。闇は我々の一部だ。在って当たり前だし、在っていいものだ。苦しむ必要はない。隠す必要もない。それは光を際立させるもの。罪でもなんでもない。神の許しを求める必要はない。あなたは初めから許されている・・・と・・・。

やがて、闇から輝く月が覗き始めた。

この瞑想が何を表しているのかわからない。

ただ、月が出てきたのを見て私は素直にうれしかった。

光と闇・・・ともに私を形づくるもの。

光だけでもなく、闇だけでもなく、どちらも抱えて私はこれからも生きていく。


*ある日の瞑想*

一つ目の瞑想では自分が地球に持ってきた音、自分自身の響きに気づくというもの。音は聞こえなかったが、波動を感じた。意外にもそれは歓びだった。「Joy of Life~生きる歓び」そのものだった。

この内なる音、波動を周囲に伝えあっている。それが全体のハーモニーになって、自分が一つのパーツでありながら、完全な調和そのものでもあるという感覚があって、世界はこんなに見えていながら調和しているのだなあとしみじみ感じだ。

そのころから瞑想中、ずっと眼を閉じていても目の前を光がずっと輝いていてまぶしくて仕方がない。光に圧倒される。

眼下に光の向こうにはっきりと石を並べた土地が見えてきた。次の瞬間、そこに降りていて、そこが祭場というか、何かの儀式の場所だとわかった。そして、そこの場のエネルギーが塊のようにどっと押し寄せてきて、しかも光はますますまぶしくて、ドキドキした。怖いと思ったけど、こわがらなくていいという思いがすぐしたので、そのまま受け入れた。過去の風景なのかどうかはわからないが、思い出すためのスイッチが入れられた感がある。

その瞑想が終わってもまだ額に光の感覚が残っていて、体がフラフラした。その後の瞑想では「理性的でいることはできない」というメッセージの後に思考が焼切られたような感覚があって、しばらく言葉が何も浮かばない。炎がシンボルとしてやってくる。もうなんなんだって感じだ。

すごく疲れた。身体は全然動かしていないのに、ものすごく長い旅をしてきた感覚。


*ある日の瞑想*

どうにも誘導の言葉についていけなくて、聞こえているのに外国語のように聞こえてしまい意味が頭に入ってこない。

仕方なく、意味を理解することはあきらめて、ハイヤーセルフやガイドにすべてをゆだねることとした。そして、ただ自分の周囲のエネルギーに意識を集中した。

すると、相変わらず言葉はわからないが、エネルギーの変化が多少なりともわかりだした。

なんとなくコツがわかった気がして、すべて投げ出して受け身になった。

するとさらに周囲のエネルギーの変化がわかりだした。

言葉が本当にない世界で、ただただ感じていた。ただ感じているだけで伝わてくるものがある。そこにあえて意味を乗せる必要はない。

とても興味深い体験だった。

言葉ではなくエッセンスを受け取っていたような感覚。

ゆだねる・・・サレンダー・・・ということがどういうことなのか少しわかった気がした。


*ある日の瞑想*

今日の瞑想の中でとても印象的な体感があった。

誘導に従っていくと自分が宇宙空間の中で花になっていた。つぼみの状態から内から光があふれてきて花びらがゆっくり開き始めるとき、周囲の目に見えない多くの存在たちの祝福と喜びのさざ波のような波動が伝わってくる。そしてその波動を快く感じながら自分自身も花びらをゆっくり広げながら自分が存在することを心から喜び、うれしいと感じている。

その感情は一言でいうならば『存在する歓び』だ。

私のその喜びの波動も周囲に広がっていく。「音」と呼んでいいのかわからないが、持ってうまれた誕生の「音」というか波動のようなものは本当に存在するのだなあと感じた。

周囲を見渡せばいくつもの花があちこちで花びらを広げ、存在する歓びを波動で伝えてくる。私も後から生まれてきた花たちに祝福の波動を送る。

その喜びはなんとも言いようのない至福の感情で、今まで何度か瞑想の中で「生きる歓び」を体感したことがあったけれど、そんな比ではない。

過去にわけもわからず存在の悲しみに涙したり、全体から切り離された痛みを感じてきたように思っていたが、私ははっきり思い出したように感じた。

「私」という「個」が全体から生じた時、私は本当にうれしかったのだった・・・と・・・。「個」として存在できること、「個」として体験できることが何にもまして歓びだったのだ・・・と・・・。

誘導に従って地球のイデアとつながった時、地球も存在の喜びをその存在の一番深いところで持っていて、だからどんな状況であってもそれを受け入れることができているのだと感じた。それは私を含めてすべての存在に共通することで、存在の喜びを超える苦がないということ。だから「苦」と思わず受け入れることができるのだ。

確かに、誘導に従って存在の喜びを体感した後でそこから日常を眺めたらやっかいごとだらけ、チャレンジだらけと思えていたのが「光輝く日々」に見えたので『なんてこった!』と驚いた。

自分の未来もこの存在の歓びを根っこに持ちながら見るとどんな日々も光輝く日々とわかったので一片の不安も感じないことも『なんてこった!』と瞑想中、びっくりしていた。

瞑想が終わってもしばらく余韻が深くて、ただただ安定している。

たぶん、日常に戻ればまたそれを苦痛と思う日がやってくるだろう。それでも「私」の始まりの日、私はいかに存在を得たことの喜びをかみしめ、周囲に祝福されたのかを体感したことは私の存在の基盤を強くする。


*ある日の瞑想*

今日の瞑想全体を通して感じることは一言でいえば「生きてるって素晴らしい!みんなありがとー!!」

愛といい、美といい、さまざまな言葉で伝えられるのは命の輝きの美しさであり、今ともに生きている多くの仲間の生きる歓びであり、我々の存在そのものが「愛」であり、互いにそれを喜び合っている。

たとえどのように見えてもみじめな生など一つもなく、「今在ること」を心から喜んでいる・・・それがたぶん我々、この地球上に命あるものの姿なんだろう。

地下で孵化せずに死んでいく蝉の幼虫も、蝉となったものと同じぐらい輝いていたし、蕾のまま枯れていく花も、花開いて種を残すものと同じぐらいやっぱり輝いていて、そこに全うできなかったという感覚はなく、与えられた命の限りを謳歌している。

私自身は無限の可能性を持つ存在であるけれども、それはたとえ全うできなくとも大事なことではないように思えた。

大切なのはすべての生あるものたち同様、この世界の「今」にともに在るということ。

他の命をいただくことは罪ではない。だが、己の命をそまつにすることは愚かだと思う。どのような形の生であれ、それはその固有の美しさで輝いている。他の生と比べるのではなく、そのものの輝きに気づかない限り、自分が今持っているものへの喜びはやってこない。

私が生きる歓びを感じることが少ないと思うのはどうやらここなんだろう。

瞑想の中で叫びだし、小躍りしたくなるぐらい歓喜に全身が包まれていた。

なんだか『ぅわんぅわん』と何かが鳴り響いているような感覚がある。

たとえて言うならば、この世のものすごい秘密を伝えられ、うれしくてうれしくて叫びだしそうな感じ・・・。

今回のセミナーはかなりパワフルだったような気がする。深くて、しかも狙いたがわず、そして最後は相当なエネルギーチャージしてもらった・・・。


*ある日の瞑想*

今日の瞑想での気づきは、私もみんなも一人ひとりかけがえのない存在で、その一人が欠けたら全体が成り立たないということ。

私が奏でる音、私が醸し出す光、私の存在は全体を支える部分であり、たとえ小さな存在であっても決して欠けてはならない存在であることを伝えてくれた。それは私だけではない。すべての存在が決して欠けてはならないかけがえのない存在で、いとおしい存在なのだとわかる。

そして「愛」について瞑想の中で追い求めた時に、出てきたヴィジョンは私は草原の中でインパラを狙うヒョウだった。遠くにインパラを見つけ、徐々に近寄り、狙いを定め、猛スピードで逃げる獲物を追いかけ、ジャンプして一撃で首根っこにかぶりつく・・・。獲物をしとめた高揚感と満足感。こんなヴィジョンがなぜ「愛」のテーマで出てくるのか・・・。

だが、なぜかこれも「愛」だと感じる。表面上はどのように見えようと、生きることが愛であり、存在そのものが愛であるならば、我々の営みもまたたとえ命を奪い奪われる行為であっても愛であるのかもしれない。

今回は「生命力」「肉体を持って生きること」がテーマとして何度か現れていたように思う。かけがえのない命を精一杯生きる・・・それは結局「今」を生きるということで、この地球で大地にしっかり両足を踏ん張って生きること・・・そのためのサポートが惜しみなく与えられていること・・・。

何度も教えられていることだけれど、根気よくまた教えられた。