「伝えられること」

かなり以前に瞑想中に「私の祈りを生きる」ということばが出てきた。

以来、時々その意味を考える


今、私は「私の祈りを生きる」道を歩んでいるような気がする。それが一体どのような道で、どこへ行こうとする道なのかがはっきりわからないまま、ただ感覚としてこの道でいいのだろうと思うのだ。


仕事をやめ、より自由な時間が増え、社会からの干渉は減り、それこそ犯罪のようなことを犯さない限り社会の中に埋没して好きなことをして暮らすことができる環境に今はある。


だからこそ、自分の祈りをより純度を高くしていくことが可能な環境にあると感じる。自分の中の濁りを澄ませていくこと。清濁を2つに引き離すことがいいかどうかはわからない。だが、まずは濁りのない純粋な自分の思い、祈りがどれほどのものかを知りたいと思う。


いったい私はどれほどの思いで祈っているのだろうか。私は何を思って祈っているのだろうか。私は知りたい。祈りが全く無力であるとは思わない。祈りも波動の一つ、エネルギーの一つなので、何らかの力は持つだろうと思う。だが、一人の祈りのエネルギーでは弱すぎる。生まれてすぐに空中に消えてしまうだろう。だから横につながる必要があると思うのだが、性格上、それが苦もなくできるわけではない。せめて自分の祈りの純度を高めてエネルギーを高めていけたらと願うのだ。


「私の祈り」は私の心の在り方に関わることなので、結局「私の祈りを生きる」とは自分の心の在り方を澄ませていくことにほかならないように思える。


ふと、考えた。何かの概念が自分の中にやってきたとき、私は時々「伝えられた」と表現する。だが、それは本当に誰かに伝えられたのか?

例えば、先日、高台にあるとある神社に参拝した。階段を上り詰めると、頂上にこじんまりとしたお社があった。お詣りしていたら、麓の国道の車の音が結構上に上がってくる。(昔はきっと静かだったろうに、神様は喧しくはないのだろうか・・・。)そう思った時にふいに『外に意識を向けるから騒がしいと感じる。内に意識を向けていたら騒音も全く苦にならない』という考えがやってきた。それで(ああ、なるほど。確かに外野の声を気にするのではなく、自分の内なる声を聞いていたらぶれることはないな)と感じた。

こんな時、私はこのことを「伝えられた」と表現しているが、ひょっとしたらすべて私の脳が創りだしたのかもしれない。でも、結果として私はこの「伝えられたこと」に納得し、その通りだと思うのでそれがどこから来たものかは気にしない。「伝えられた」とひとくくりにしてしまっている。大事なのはその中身だと思うから。


そして折りに触れ、さまざまなことが「伝えられる」。時にヴィジョンで、時に言葉で。理解できるものもあればできないものもある。だが、今理解できなくとも後でそれなりに意味がわかってくることもある。

「私の祈りを生きる」もこの類いだ。その時はよくわからなかった。だが、何かの拍子にその言葉が思い出され、その時の自分がまた新たな解釈を重ねる。


こんなことがただただ面白く、生きていることに飽きない。

この世界に命を与えられていることに心から感謝です。



宙海の音(Sorami no Oto)

ようこそ、宙海の音へ。 ここは「天に在るように地にある」べく、日々暮らしながら、世界が美しいものであふれていることを記録にとどめるためのサイトです。 宙海の音とは瞑想中に出会う空間で、そこでは全ての存在がそれぞれ固有の音を響かせながら 一つの完全に美しい音としてその空間に広がっている音のことです。 どの音もすべて必要な音であり、どの音が欠けてもそれはもう宙海の音ではないのです。

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