希望をつなぐ
今日は午後からまほらの瞑想セミナー「富岳」に参加してきた。
近頃あまり瞑想に入っていけないので今日は多少不安であったのだけれど、やはりあらためて瞑想はいいなあと心から思える体験ができた。
個々の体感やヴィジョンよりも、今日の瞑想で何を感じたかを書き記しておきたい。
今日一貫してテーマとしてあったのは「希望」だった。「信頼」と言い換えてもいいかもしれない。我々の内に在る「神聖な自己」「大いなる存在」「仏性」「神」「真我」…どのように呼んでもいいが、それらが我々の内に存在していることを信頼すること、そして全ての人がやがてその神聖な自己を表に現していくようになることを信頼すること。そのやがて来る日への希望を失わずに待ち続けること。
それはそうであってほしいというものではなく、そうであるから待ち続ける・・・そのような希望だ。過去、多くの人たちが何度も何度も希望を見失ったまま死を迎え、それでも新たに生まれた命がまた新たに希望を見いだし、争いや憎しみの消えない世界で疑いが生じ、信じ切ることの難しさ、苦悩の中で命を終えていった。それでも希望が消えた時代など一度もなかった。なぜならそれは夢幻ではないと誰もがどこかで本当は知っているからだ。
この希望をつないできた戦士たちは今も多くの祈りとともに我々を見守っている。
神聖なる自己とつながり、その自己の目を通して見る世界は同じ世界でも光に満ちあふれて見える。世界は相変わらず我々の性根を試すがごとく様々な姿を見せつける。それでもそこに美をさえ見いだすことができる人が増えていけばこの世界のエネルギーは大きく変わっていくだろう。私はそんな世界を見ることはできないかもしれない。それでも「希望」を伝え、繋ぎ続けていくことを私はどうやら望んでいるらしい。
求める世界はどこか遠くにあるのではなく、
我々の見方を変えることで実はこの世界こそが求める世界だったと気づくことができる。
まさしくメーテルリンクの「青い鳥」だ。
今我々の側にいる鳥は青く見えないかもしれない。
だが、自分の中の神聖な自己の存在を信じることでその神聖な自己とつながり始める、やがて灰色に見えた鳥が青い鳥だとわかるようになる。
見えない階段を上るということはこういうことなのだろう。
あると信じることでそれが姿を現わし、実在化していくのだ。
ちょっと理屈っぽくなってしまった。
言いたかったのは、私は「希望」を後世につないでいきたい。一人一人の希望がやがて大きな力になる。一人一人が戦士なのだ。何度も揺らぎ、不信にさいなまれても信じ続ける戦いを繰り返している戦士なのだ。
この世界は美しいと・・・。
我々は美しいと・・・。
知っていることは強みである。
体感したことは強みである。
たとえ99%忘れてしまっても、一度知ったこと、体感したことはわすれることはない。必ず波のように何度も繰り返し記憶を揺さぶってくるだろう。
全てに心から感謝です。
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